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Firenze 2023- その会話と感覚 8月21日

 

わたしがフィレンツェに行く時には必ず会いたい

そして会う人は何人かいますが

その一人は小箱珍道中に付き合ってくれたL

そしてもう一人はベルリン在住のドイツ人Kです。

Kはわたしの滞在に合わせてベルリンから来てくれます。

この2人は特に大切な友人です。

 

2人ともPalazzo Spinelli の木工修復コースで共に学び

お互いに家族も知っているし

若気の至りの恥ずかしい思い出も知っていたりして

もはや隠すことも無く安心して受け止めあえる

と言うような間柄です。

この人たちと会えたことは

留学で得た大きな大きな経験と宝です。

 

▲右がK、左がL、3人で郊外にドライブに行ったとき。

 

Kがフィレンツェに来てくれて

3年ぶりに再会して喜んだあと、

まぁちょっと2人でアペリティーボ

(夕方の食前酒と軽いおつまみ)でもしようよ、と座って乾杯。

その時、Kがまじめな表情で

「あのさ、ご両親が亡くなった後、あなたどうする?」

と聞いてきたのでした。

会ってすぐに突然の質問だったので

ビールを吹き出しそうでした。

「最近よく考えるのよ。

両親も今は元気だけど年を取ったし。」と。

うん、確かにそうだね。

そうか、3年ぶりの再会、その最初の会話が

「一人になったら」かぁ・・・。

 

またある日、KとLと3人でお茶をしていた時の2人の会話

L「あれ、君、昨日髪を洗ったの?」

K「ううん、昨日も一昨日も洗ってない。」

L「あ、そう?なんか昨日のほうが君の髪が脂っぽかったけど」

K「いやぁ、もう面倒だから家に帰るまで洗わない。アハハ」(翌日帰国)

 

わたしはまたもやコーヒーを吹き出しそうでした。

日本だったら無い会話ではないでしょうか。

ヨーロッパの人たちの髪質は違うし洗髪頻度はそれぞれ。

Kの髪が不潔とも感じませんでした。

それにしても、友達に可能な質問なんだなぁ・・・。

 

その他にも、その会話はアリなの?!というような

(赤裸々すぎて書けない)内容でも

彼らは飄々と普段通りの顔をして

「昨日何食べた?」みたいな感覚で話すのです。

デリカシーが無いのとは違う。

繊細な部分はとても繊細で、人の気持ちにも敏感な人たちなのです。

 

 

ヨーロッパの人と言っても国が違えば感覚も違って

人それぞれで一概には言えませんけれども

日本より個人主義を強く感じます。

図書館や郵便局で職員さんに質問をしても

キッパリ「知らない。」の一言で終わられてしまう。

「私は悪くない。知らないのは私の自由。」だから。

システム(役所や交通機関など)は

担当者の気分次第だったり、

人間の感情が仕事を左右することが頻繁で

日本人はそれに驚き困ります。

 

けれどその分、周りの人々は我慢強いと言いますか

迷惑をかけられても「やれやれ」と寛容なのでしょう。

怒鳴る人もいない。

それってきっと、自分もそうだから気持ちがわかる

怒っても良い事は何もないと分かっているから

なのかもしれません。

互助感覚といいましょうか

困っていても誰かが助けてくれる可能性が日本より高く

「終わり良ければ総て良し」が強いような。

 

彼らは久しぶりに会った友人に

唐突な質問が思い浮かべば素直にするし、

髪を洗おうが洗うまいが自由だし、

それに対して思った質問をするし、

そんな質問をされても何とも思わない。

何歳になっても、流行っていなくても

ミニスカートが履きたければ履く。

困った人は当然助けるし、助けられる事に躊躇しない。

日本ではあまり感じない種類の自由さと寛容さ、

素直さが彼らにはあるようです。

 

そしてわたしは彼らのそんな様子を興味深く観察し

日本には無い友人関係にも居心地の良さを感じる。

 

染み着いたわたしの日本人的感覚と彼らの感覚と

どちらが優れているとか好きとかでは無くて、

その違いがひたすらに面白いのでした。